私が小学生の頃、真空管ステレオアンプや短波受信機を作るのが趣味だった父が休みの日にラジオを一緒に作ってくれたりしていました。次第に電子部品に興味をもっていった私は、「子供の科学」という雑誌の広告に「マイキット」という電線で部品同士をつなぎ、ラジオやワイヤレスマイクなどが作れるという、玩具にしてはよくできたものを発見しました。

その学研マイキットがほしくて、クリスマスにマイキット100という100種類の電子回路の実験ができるものを母親に買ってもらいました。嬉しくて、これでもかというくらい使って遊んでおりました。(写真はマイキット200)

その後のBCLブームのころには松下のクーガー2200が欲しくてねだった記憶もありますが、定価34,800円は小学生の持つものとしてはあまりに高価だということで手にすることはありませんでした。

雑誌「初歩のラジオ」の広告にはBCLラジオとともにアマチュア無線の記事や広告がたくさん載っていて、その影響を受けて小学生から中学生になろうという1979年の4月期に電話級アマチュア無線技士の国家試験を受けました。
無事電話級アマチュア無線技士に合格し、その夏にナショナルのRJX-610という50MHz5W出力のSSBトランシーバを誕生日プレゼントとして親に頼み込んで買ってもらい、庭に置いた地上高3mHのマスプロ3ELE八木アンテナとともに10月に開局しました。
コールサインが来るまでの待ち遠しかったこと…コールサインが来るまでは学校から帰ると毎日6mを聞いていました。そして念願のコールサインJM1DTFがきました。初めてのQSOは自分でCQを出し、数キロ離れたJM1DSU局との交信でした。緊張のあまり、何を喋ったのかは全く覚えておりませんが、緊張してマイクを持つ手が汗だくになっていたことが思い出になっています。

それ以降は毎日毎日CQを出し、見たことも会ったこともない人達との交信を楽しんでおりました。(写真が松下電器RJX-610です。ただし後に中古で購入したものです。当時もっていたものは高校生の時に自分が通っていた高校に寄付してしまっていました)その後は無線のやり過ぎで学校の勉強もおろそかになり、無線中止令が親からくだったこともありました。
1980年4月5日に初めて移動運用を体験しました。ローカル局数人で自転車に大切なRJX-610を載せて日野市の丘の上に行ったのです。CQを出せば途切れなく呼ばれ、1日で120局以上QSOできました。移動の楽しさを知ってしまいました。

さらにその夏に初めて外国のアマチュア無線局と50MHzSSBで交信しました。コールはHM2JD、韓国の局です。開局時の第一声よりも緊張しました。英語でしたが、何を喋ったのかは覚えていません。交信を終わったときマイクを握る手が震え、ついでに声も震えていたのは覚えています。
その後はもっと遠くの人と交信したいあまり、屋根の上のアンテナも徐々に巨大化(全て自分で工事していたため、瓦も割るし、屋根から落ちそうにもなるし、色々経験しました)し、誘われれば移動運用もローカルと一緒に行っていました。写真はブームステーを張ってあるにもかかわらず心なしか垂れ下がっている50MHz9ELE八木(NAGARAのSS-96)です。

1989年に50MHzでアフリカのZS8MI(マリオン島)、翌1990年にヨーロッパの9H1BT(マルタ)とのQSOで50MHzWAC(世界6大陸との交信でもらえるアワード)を完成しました。写真は50MHzで当時交信して得られた6大陸の局のQSLカードと、まぐれでQSOできたカリブのKG4SMのQSLカードです。
当時はコンディションのすごく良い日があって、朝7時ごろから50MHzバンドがアメリカ西海岸の局でいっぱいになっていました。ためしにCQDXを出すと、なんとW(北米)からパイルになり、1時間に50局近くQSOできました。その数日後からはそのときQSOしたアメリカの局から何通ものQSLカードが1$札と共に送られてきました。50MHzDXが楽しいと感じたのはこの頃からでしょうか…。
また、1990年秋には岡山県備前市との交信を最後に50MHzSSBのみでWACA(日本の全ての市の局と交信してもらえるアワード)を達成しました。ほとんどは自宅からのQSOですが、大学1年のときのお盆休みの頃に東京都稲城市の高台にテントを張り、6mの6ELE八木を建て、風呂も入らずJL1RUC局、JM1GHT局、JQ1BVI局などローカル局数人で1週間近く合宿?をして遠いエリアの移動局と片っ端からQSOして一気にJCC、JCGを伸ばした思い出があります。
毎晩色々な局が差し入れを持って訪ねて来てくれていました。残念ながら50MHzSSBでのWAGA(日本の全ての郡の局と交信してもらえるアワード)はあと10郡というところまでは行きましたが、就職後の仕事多忙、結婚などでQRTしてしまい、そこでおしまいとなってしまいました。

少し戻って、学生ではありましたが、アルバイトして貯めたお金で車を買ってから、ローカルのJQ1BVI局、大学の友人のJL1IRB局の影響もあり50MHzでの移動運用にのめりこみ、関東を中心に関東一都六県をはじめ福島県、新潟県、長野県、岐阜県、静岡県などに頻繁にでかけて無線の移動に明け暮れました。
移動のためのアンテナも大きくなり最終的には5ELEのスタックになってしまいました。(写真は1994年7月16日の岐阜県益田郡移動のときのものものです…単独でしたので、アンテナの上げ下ろしは大変でした)四輪駆動車が好きになったのもこうした移動運用がきっかけで、日産テラノディーゼル→同テラノV6ガソリン→トヨタランドクルーザー80ディーゼル→同ランドクルーザー100V8と乗り継いでいきました。

社宅生活のため何年かQRTしていましたが、自分の家を持ってしばらくしてから突然無線熱がでてしまい、2003年春に小さい頃からの夢だったタワーを建て復活しました。上の写真が夢にまで見たタワーです。2004年春には50MHzと21MHz、14MHzで変更検査に合格、その後1.9MHzから50MHzまでオールバンドで1kWの許可をもらい、50MHzをメインにHFにもQRVしています。(第一級アマチュア無線技士)

タワーを建てたのと同じころ、たまたま小学生の頃に流行っていたBCLラジオ「ナショナルクーガー2200」をネットオークションで1台手に入れてから、BCLラジオ(短波受信機)の収集、レストアもしています。
また2006年には太陽活動の最低期であるにも関わらず50MHzで北米やヨーロッパと多数QSOし50MHz帯の面白さを堪能しました。その秋、初めてアマチュア無線の雑誌CQ ham radioで記事を執筆させていただき良い記念にもなりました。